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特別対談No.04 メインフォト

[対談] 中村亮介監督×氷川竜介

2012年11月22日

戦わずして海へ連れていく主人公像
そのプロットからキャラが作られていった

氷川:物語で驚いたのは、クライマックスです。京極がケンジに「決着をつけよう」って言って、普通ならそこから壮絶な戦いになるところなのに、 そこで突然ケンジは、のんきに海に行こうって言い出す。緊張感からのあの落差に「えっ!」とびっくりしました (笑)。力による対決を避けようとしたのは何か理由があったのでしょうか?

中村:海に行くプロットは、かなり初期からのものですね(笑)。ひとつには、物語が予定調和におさまらない、意外性が欲しいということ。 でもそれだけなら、単に変化球を投げたいだけの、ひとりよがりな技巧になってしまうので。、それがケンジというキャラクターにとって「らしい」展開であることが、 もっと大きな理由です。中学生の時自分を思い返すと、自分を他人の目から、いかに大きく、カッコよく見せるかばかり気にしていて。ありのままの自分、等身大の自分で、 人と接することができなかったように思うんです。いちばん親しい友達との間でさえそうで…。見渡せば、まわりの誰もがそうだったように思うんですよ。 そういう心の通わなさを思い出すと、今でも悔いが残ってるんですよね。だから主人公のケンジは、そうした自意識から自由で、飾らずありのままに生きている子であって欲しかったんです。 平和な時代には目立たないけれど、京極の計画が進んで学園が緊迫していくと、いつもどおり変わらないからこそ光って見えるような…。そんな主人公であって欲しかった。 逆に言えば、対決の場面でも朗らかに「海に行こうよ」って言えちゃう子って、どんな子だろうって。プロットから、キャラクターを考えていった面もありますね。

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描かれている超能力と言葉の解釈
ケンジが物語るセリフが意味もするものは?

氷川:あそこでは思わず笑ってしまいましたが、そのあと海岸でのやりとりで、一番大事なことを語ってもいるんですよね。 あと見終えた後に残る疑問は、ケンジとナツキの糸電話にまつわる回想シーンです。あれは、過去を変える超能力をナツキも使っていたということになるんですか?

中村:今回の映画のテーマから考えれば、ほんとうは超能力はテレパシーだけに限定したかったんです。 でも原作に準じれば、京極は必ず未来から来るわけで…。無制限に時間移動できると、そのパラレルワールドの整合性をとるだけで、 ものすごい説明量が必要な作品になっちゃうんですよ。もちろんそういう作品もあっていいんですけど…、原作もそこらへんは大らかに扱かってまして。 原作の京極(父)も、小刻みに時間をさかのぼれたら、耕児(ケンジの祖父)を簡単に負かせちゃうんです。だから今回の映画でも、時間移動能力をどう制限するかが、 非常な難題でして。一応はルールを決めつつも、できればあまりそこにお客さんの関心が向かないで、メイン四人の人間関係のドラマを楽しんで見てもらえるように演出できたら、 それが一番いいなと思ってました。
――で、まずは、一往復するのが人間の体の限界であることにしようと。それ以上は、実体のない思念体の形でしか来れない。 それから超能力があっても、有限であることにしようと。ナツキのように、もともとチカラはあっても使い切ってしまったパターンの人も示しておくことで、 のちに京極も同じくチカラを使い切ることや、滞在時間にタイムリミットがあることへの違和感を少なくしようと。そこらへんの、なんというか…「有限」な感じは、 なるべくなら砂時計というアイテムがもつ「タイムリミット感」のメタファーで、理屈よりも印象的に理解してもらって、長々した説明セリフは避けられたらなあ…と。 それから、ケンジとナツキの糸電話のやりとりに関して言うと、まずは、あのシーンはナツキの夢なので、あくまでナツキの主観であることを前提にしようと。 つまりケンジがナツキの夢の中でなんと言おうと、それが確実な過去かどうかは解釈の余地があって、夢らしい錯綜した演出の中に溶かしこんでしまおうと。
で、ケンジの「あの時、実は死んだんだ」っていうセリフは衝撃的なわけですけど、まず第1にその一言で、パラレルワールドが存在しても、 それは修正されればなくなる設定――現実にケンジは今の世界に存在しているわけですから――であることにしょうと。第2にナツキがケンジを救ったから助かったわけですけど、 それほどナツキがケンジを大切に想っていたエピソードの一つであると。第3に、このあとにくるケンジとナツキの別れを、さきに別れの挨拶をして月に向かう姿で、予兆として示そうと。 第4に、「本来ならばこの世界に存在しなかった人間」同士のシンパシーが、京極とケンジのあいだで生まれるきっかけにしようと。京極はそうした自分の存在に悩む人間であり、 ケンジは自分の存在に込められた他人の想いを受け入れた上で、物語のラストでは京極に、共に歩める道を示せるような存在でありたいなと。第5に、演出的にはこれが一番大事ですけど、 ケンジとナツキとの間に、言葉ではコミュニケーションが成立しない瞬間を示すこと。――ケンジの言葉を聞いた子供ナツキが首をかしげるわけですけど、それはお客さん全員の気持ちでもあって。 ナツキの夢の中なので、お客さんもナツキの目線でケンジの話を聞いているわけですよね。で、それが最終的には「でも…」とケンジが京極を救うシーンにつながって、納得がいけば良いなと。 そのシーンでは「救う」という意味合いをわかりやすくビジュアル化して…、言葉がなくても手と手をつなぐケンジと子供ナツキに、この作品のテーマを象徴することにしました。 これらがテンポが悪くならずに、なおかつ一回見ただけで全部わかるように説明できたら、僕も自分をかなりの演出だと思えるんですけど、残念ながら…(苦笑)。
今の自分ではおそらく、テレビシリーズならこれに丸一話ぶんくらい尺をとってしまうと思ったんです。全体尺がオーバーしていることもずっと言われてまして…。 でも他のシーンも含めて、トータルではそう理解して頂けるように細かい要素を仕込みましたので。ぜひ何度か見て頂いて、それで理屈の上でも納得して頂けるなら嬉しいです。 一回ではわからなかったり、こうやって取材で監督の説明が必要になってしまうのは今の僕の力不足で。反省点だと思ってますし、何より監督がなんと言おうと、解釈はお客さんのものなんです。

氷川:なるほど。そういうモヤモヤが残るところ含め、主流と違うところがいいなと思ったんです。 ある種の引っ掛かりがあったほうが余韻が残るし、もし2回、3回とご覧になるお客さんがいるとしたら、新発見があって楽しめる。あのワンちゃんにしても、いったい何だったのか、今ひとつはっきりさせてないですよね。

中村: シロも、ケンジの力を封じ込めた思念体で、実際の犬ではないという設定で…。なるべくわかるように、ちょいちょい要素は仕込んだつもりなんですが、はっきりしなくてすみません。 スタッフからも「2回目に観たほうが伏線が理解できて面白い」という意見が多くて、「一回じゃそんなにわからないかな!?」って気にしてるんですよ…(笑)。僕個人は宮澤賢治とか、 説明がまったく不足している児童文学も、それはそれで楽しめる性格なので。お客様にもそう楽しんで頂けたなら、一番嬉しいんですが。

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相手側に立って読み返してみるということ全部を説明しない、余白のある文学的な作品

氷川:他に注目したのは、原作の続編的なドラマ要素です。小説では深く描かれてはいないものの、高見沢みちるというキャラクターが、最後は別の目的地に向かう京極について行く。でも、カホリは違う行動をとります。

中村:それもかなり早い段階から、この映画では連れていかずに終わるラストにしようと思ってました。

氷川:最近、原作の文庫を再入手したら、「もし何回も読み返すなら、主人公側だけでなく、相手側の登場人物の立場からも読んで欲しい」という文章があって、すごく気になったんです。 アニメ版では、かつてついていった側の気持ち、そこで生まれたドラマも想像できるので、ああ、この映画って、そういうスタンスなんだって思ったんです。

中村:眉村卓先生の前書きですね。すごく良い文で。まさにこの映画も原作のように、そうありたいと思いました。

氷川:本当に原作では一瞬しか描かれてない展開ですよね。それに対する想像力を膨らませた感じもしたんです。そういうことも含めて、あえて全部を説明しないで進められたのかなとも思いました。

中村:そうですね。行間を広めに取った作品だと思います。今の映画って、たとえ事態が緊迫していても、長々全部を説明しきった上で、 さあ救出!とか、そういう映画が多くなった印象があるんですよね。僕としてはそこまで親切でなくとも、ドラマのテンポを止めずに、 最小限の説明から感じてもらえるようなフィルムにできたらという思いはありました。良い言い方をすれば、文学的に。小説を原作にしている以上、 文学的な部分はあっていいと思うんですけど、匙加減に迷う部分でもありますよね。

氷川:細田守監督の新作『おおかみこどもの雪と雨』も、やはり行間がいっぱい空いていて、すべてを明らかにしていません。 杉井ギサブロー監督の『グスコーブドリの伝記』や宇田鋼之介監督の『虹色ほたる~永遠の夏休み~』など、今年はそういうアニメ映画が多いんですよ。あ時代は想像力や思いやりを大切にする方向なのかなって…。

中村:そう言われてみればそうですね。今の時代に「行間」のゆとりを求めたくなる、何かがあるんでしょうか。 「ねらわれた学園」に関していえば、中高生から楽しめるものにしたかったので、あまり文学的すぎてもいけない。作品のテーマや少し難しいやりとりは、 一回ではぼんやりしかわからなくても、できるだけ入り口は広くして。人間関係のドラマとしてなら、初見で楽しく観てもらえたらいいなと。 その上で、それ以上の楽しみ方も仕込んでおきつつ…。それこそ眉村先生の前書きの言葉ですが、同じ物語を相手の立場から見直したり、 あるいはもっと年を取ってから見返した時に、また別の発見や感じ方をしてもらえたならば、すごく嬉しいですね。

* vol.05に続く *